2019年10月25日
九州工業大学の創立者 安川敬一郎の話
あだなは”ドガシコ”
慶応義塾で英語を学んでいる時、英語の先生に ” ハウマッチ ” を訳すように言われた敬一郎は、
「それは、ドガシコぞ!」 と答えました。
しかし、先生も学生も何の事かわからず、どっと笑いました。
そのため『ドガシコ』 が敬一郎のあだなになったそうです。
(ドガシコは方言で「どのくらい」 という意味)
安田敬一郎(16歳で養子にいく前は徳永姓)は勝 海舟 に英語を習い、慶応義塾に入学し、
福沢諭吉から「日本は産業や文化が遅れているため、西洋の学問や技術を勉強し、
それを進んで取り入れることが大切である。」 と教えられました。
明治40年に、豊国炭坑で大きな ガス爆発事故が起こりました。この事故を通して
「これからの日本の工業の発展のためには外国のすぐれた技術を身につけた多くの技術者が必要なのだ。
炭坑経営で得た私の全ての財産をかけても工業技術の学校をつくろう。」 と敬一郎は考えたのです。
敬一郎はこの夢を早速実行しようと東京に出て、いろいろな人に相談しました。
早稲田大学の創立者 大隈重信は「安川さん、工業の大学なんかつくってもお金がかかるばかりですよ。」
と注意をしたそうです。
敬一郎の考えに賛同した東京帝国大学(現在の東京大学)の総長・山川 健次郎を総裁として迎え、(一円銀貨のあった)当時のお金で330万円という莫大な私財を投じて、10万坪の土地に明治42年(1909年) 明治専門学校を開校しました。敬一郎が60歳の時でした。
そして、大正10年(1921年)敬一郎は学校に経済的な援助ができなくなり、政府に寄付しました。
専門学校が国立になりその後、昭和19年 (1944年)明治工業専門学校と校名を変更し、昭和24年(1949年)
現在の九州工業大学となりました。
※明治40年頃の米の値段60㎏が約五円
参考文献「戸畑ヨイトサ!ものがたり」
編集 北九州市小学校社会科研究協議会
戸畑小学校社会科研究会「なごや会」